ムンクの装飾プロジェクト

Dsc00880ムンク展  2007年10/6-2008年1/6  国立西洋美術館

ムンクは、自らが描いた作品のなかでも最も中心的な諸作品に生命のフリーズという名をつけた。それは、個々の作品をひとつずつ独立した作品として鑑賞するのではなく、全体としてひとつの作品として見る必要があると考えたからだ。その壮大なプロジェクトによって達成しようとしていたことは、「愛」「死」「不安」といった主題からの切り口だけでは捉えきれないもの、その「装飾性」だった。今回の展覧会は、ムンクの作品における「装飾」という問題に光を当てる試みで、オスロ市立ムンク美術館などからの代表作108点を一堂に展観した。

展覧会の構成  (図録にてお浚い)
第1章 生命のフリーズ:装飾への道
第2章 人魚:アクセル・ハイベルグ邸の装飾
第3章 リンデ・フリーズ:マックス・リンデ邸の装飾
第4章 ラインハルト・フリーズ:ベルリン小劇場の装飾
第5章 オーラ:オスロ大学講堂の壁面
第6章 フレイア・フリーズ:フレイア・チョコレート工場の装飾 
第7章 労働者フリーズ:オスロ市庁舎のための壁画プロジェクト

このように今回の展覧会は、フリーズ装飾画家としてのムンクに焦点を当てている。

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"フリーズ"という用語は、もともと建築における帯状の装飾を指す言葉である。 
ムンクは、諸作品の中でも特にその核となるものを<生命のフリーズ>と名付けた。<生命のフリーズ>は、全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考えられたものである。有名な「叫び」や「不安」や「絶望」あるいは「メタボリズム」が含まれており、ムンクを理解するには、とにかくまず<生命のフリーズ>を観なければならない。

ムンクはその構想を、次のように説明している。
「私は、それらの絵を並べて見みて、数点のものが内容の点で関連があるのをかんじた。それらのものだけを一緒に並べるとある響きがこだまし、一枚ごとに見たときとは全然異なるものとなった。それはひとつの交響曲になったのである。」
<生命のフリーズ>は、まさにオーケストラの奏でる交響曲のようなもので、それぞれの楽器のパートの演奏がひとつにまとめられた時に初めて、作品として完成するものであった。ムンクは、この交響曲を、時には作曲家として、と時には指揮者として作り上げようとしている。
実際、「私は現在、絵画の連作の制作に没頭しています。多くの私の作品は、それに属するもので...これまで難解であると思われてきた作品も、まとまって見られたならもっと理解しやすくなるとおもいます、愛と死がその主題です。」という手紙を書いている。

<生命のフリーズ>がひとつの到達点を見せたのは1902年のことであった。第5回ベルリン分離派に招待され、22点の油彩作品を「フリーズ:生のイメージの連作の展示」というタイトルもとで出品し、これらの作品をさらに4つのセクション「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」に区分して展示している。このときの展示は"装飾性"という観点からも、重要な形式をもつものであった。

しかしムンクは何よりも、1890年頃から描き続けてきた<生命のフリーズ>の諸作品が、ひとつの屋根の下でまとまった形で展示される場所を強く望んだ。が、その計画を実現しようとする者は現れなかった。そのような恒常的な展示場所がないならば、自力で作り出さなければならなかった。
1918年、ムンクはオスロのブロンクヴィスト画廊で個展を開き、<生命のフリーズ>の作品20点を再び壁画的形式で展示することを試みた。
「いまブロンクヴィスト画廊にそれが掛かっている形で、ひとつの装飾的なフリーズとしての欲求を満たすことは完成に近づいていると思われる。」と語っている。

Dsc00911「完成に近づいている」と感じられた装飾プロジェクトとしての<生命のフリーズ>は、しかしながら決して終わることのない、完成には至ることのないプロジェクトだった!
1916年に移り住み、1929年には大きなアトリエを増築したエーケリーで、ムンクは晩年を過ごすのだが、そのエーケリーのアトリエで、ムンクは自らの作品を手放そうとせずにできるだけ手元に置いておき、<生命のフリーズ>の諸作品をさまざまに組み合わせ、並べ替えて、全体でひとつの装飾的な壁画プロジェクトとなるように構想していった。その様子は残された何枚かの写真によって確認ができ、ムンクの試行錯誤の軌跡を辿ることができる。
1925年に撮影された4枚の写真には、すべての壁の様子が撮影されており、ムンクがアトリエで行っていた展示を再現することができる。

1925年のアトリエにおける展示の再現図↓ 本展の出品にはcat. 不出品(ムンク美術館蔵)にはM と記

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扉を開けて入ると、正面の壁の中央には「メタボリズム」が掛けられている。この作品が<生命のフリーズ>の中でいかに重要な位置を占めるものなのかよくわかる配置だ。

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「赤と白」「女性、スフィンクス」「メタボリズム」「生命のダンス」「声/夏の夜」

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相対する、つまり扉のある壁には...

扉の周りに門型に作品が並べられている。その上部には「不安」「叫び」「絶望」という赤い空を背景とした3点が、まるで融合してひとつの作品になるように置かれて、左右には頭蓋骨をモチーフとし「死」をイメージする作品が配置されている。

1929年に撮影された写真からはかなりの変更が確認できるが、扉上部には変わらずこの3点が置かれており(順序は変えて)、やはり最も重要な作品だとわかる。

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入口を入って左側の壁には「サクラメント」「病室での死」「死んだ母親と子供」「目の中の目」が並ぶ。

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入口を入って右側の壁には「吸血鬼」「接吻」「灰」「別離」「赤い蔦」が並ぶ。

Dsc00917これまでは画集を見るなど一対一的感覚で?鑑賞していたムンクの絵画だが
こうして壁画のように並べられた大作を遠くから眺めると、その空気感が伝わる。響き合い、動き出し、色が踊る。
ムンクの絵は、写実ではないが、(クリムトのように)装飾的だとも思ったことがなかった。重いテーマで内面に迫る絵だという印象だった。
今回の、フリーズ装飾画家としてのムンクに焦点を当てた展示はとても新鮮だった。

また、今回の展覧会では「叫び」を見ることはできなかったが、
「声」「生命のダンス」「病める子」などなど一度は見たかった数々の名画も堪能できた。この「声/夏の夜」1893 油彩 カンヴァス は、ボストン美術館収蔵の同主題の作品より少し後に描かれたものとされる。

初めて目にしたムンクの実物は、意外と薄塗りだな~とも感じた。名作のほか、フリーズに向けての下描きやデッサン、習作も見ら興味深かった。

この日は?混んでおらず(というか本当に人が少なくて(^-^;)ゆっくり観ることができた。

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Dsc009101896年、パリに滞在していたムンクは、彼にとっては初めてとなる装飾パネルの注文を受けている。それはノルウェーの実業家アクセル・ハイベルクからのもので、自国の画家を支援するという目的もあったのであろう(現在は画面形式を台形から長方形へと変更されフィラデルフィア美術館が所蔵)。この装飾パネルの制作にあたり、ムンクは「人魚」という主題を選んだ。月光が海面伊反射して光の柱を作る夜、海に体を浸した人魚が人間へと変容する瞬間を描いていると解釈することもできよう。

有名な「思春期」1894-95と同じく、ひとりの少女が性に目覚め、子供から大人へと大きく変化する様を描いたものと考えられ、引いては<生命のフリーズ>と深く結びついた作品とみなすことができる。

今回、その「人魚」の展示はなかったが、下絵が見られた。

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この水彩画は、「人魚」の唯一の下絵素描ということだ。かなり細長で、上下の幅が狭く、かつ両側が斜めに切り取られた形式の画面に、いかにモチーフを合わせていくのか、その探求の様子が伺える。

とてもいい水彩画だと思った♪ 

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Dsc009131903年、ムンクはマックス・リンデから自宅の子供部屋を飾る装飾パネルの注文を受けた。1902年のベルリン分離派展への出品後、ムンクの名声はドイツで非常に高まり、多くの友人やパトロンを得ることとなったが、なかでもマックス・リンデは『エドヴァルド・ムンクと未来の芸術』を執筆、出版もした重要なパトロンのひとりだった。彼は、リューベックに住む眼科医で、ムンクはこのリンデ宅を幾度か訪れ、邸宅の様子や家族の肖像を版画に残してもいる。
ムンク自身その出来栄えをかなり気に入っていたが...しかしリンデは、最終的にこのパネルの受け取りを拒否してしまう。自分が望まない主題が加えられていたことも一因であっただろうが、このフリーズの描き方が(薄塗りのまるで水彩を思わせる絵の具の塗り方が水彩と同じように色褪せるDsc00912と)誤解されたようだ。リンデは、このフリーズの加筆修正にすぐさま取り掛かることを望んだが、ムンクは他の展覧会に関わる用事などで、リンデの要望に応えることができなかった。また、そもそも拘りの強い二人でもあった。そういった様々な理由のもとにこのフリーズは受け取り拒否となってしまったのだ。

ムンクが、子供部屋を飾るための絵を描いていたとは全く知らなかったので、この<リンデ・フリーズ>の一連の作品はとても新鮮に感じられた。とは言え、やはりムンクならではの要素は散りばめてあり、それは<生命のフリース>へとリンクする。

リンデ・フリーズで、個人的に入ったのが「花に水をやる少女たち」。 この主題は、「果物を収穫する少女たち」と同じように自然の生命力や豊穣さをテーマとしているもので、かつリンデが望んだ"子供らしい"主題となっているという意味でも<リンデ・フリース>に相応しいものである。しかし、ムンクが晩年過ごしたエーケリーのアトリエにこの作品が確認されていることから(この作品はある意味で切り離されていった?)代替的な作品の可能性もあるとのことだ。

リンデに受け取って貰えなかった上に、私のお気に入りの一枚「花に水をやる少女たち」油彩 カンヴァス 1904が...実はリンデ・フリーズ用ではなかったのかも^^?なんか複雑!

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Dsc00916Dsc00914906年、ムンクは再び<生命のフリーズ>をもとにした装飾パネルを制作する機会を得た。依頼したのは、ベルリンのドイツ劇場を運営していた演劇人マックス・ラインハルトであった。劇場のオープニングとして彼が選んだ作品は、ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンの戯曲『幽霊』であった。そして、その舞台美術を、イプセンの同郷人であるムンクに依頼することにした。さらに、劇場のロビーに予定していた場所を飾るための壁画もムンクに依頼したのだ。
しかし、<リンデ・フリーズ>と同様に、このフリーズもまた困難な仕事だったようだ。「ある特定の場所を装飾するということは、私には不慣れで難しい。この劇場が小さくて、繊細なビーダーマイアー様式であることは、この仕事をほとんど不可能にしている...」おそらく、<リンデ・フリーズ>の失敗から学んだのだろうが、自分の作品と、それが展示される建築空間との調和の問題を何よりも気にかけていることが手紙からもわかる。
ベルリン小劇場は、1906年秋に『幽霊』の上演によって無事幕開けしたが、フリーズの仕上げにはさらに一年以上もの時間がかかり、完成したのは1907年の12月だった。客席(平面図より)の出入り口の手前に、そら豆の形をした部屋があり、ちょうどこの部屋の真上の2階の部屋(同じようにそら豆の形をしていた)にムンクのフリースは飾られた。

今度は飾って貰えた(笑)。テンペラ カンヴァス で描かれた作品群は、地肌が見えるほど薄塗りで、勢いのある筆致は殴り描きのような印象もあった。気に入ったのは「泣いている女」1906。 赤いドレスと青い海、さらに緑の岩と女性の形の呼応。<ラインハルトン・フリーズ>のための習作ということだ。

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Dsc00922Dsc009191916年に完成したオスロ大学講堂の壁画、通称オーラは、そのモニュメンタルな規模や公的性格から考えても、ムンクの装飾プロジェクトの中で最も重要なものである。しかし、それが実現するまでの行程は決して平坦なものではなかった。すったもんだの末、およそ7年の歳月をかけて構想が練り上げられ、完成された大壁画。簡潔に言い表せば、自然の力と人間の力の調和ということになろう。講堂の三つの大きな壁面には、正面に「太陽」、正面に向かって左側の側壁には「歴史」、右側の側壁には「アルマ・マーテル」と題された作品が描かれている。

Dsc00920Dsc00923講堂の正面を飾り、全壁面の中心をなす「太陽」は、まさに全ての生命の源。「歴史」は口承によって民族の伝統と歴史が伝えられてきたことを示すかのように、子供に語って聞かせる老人の姿が描かれている。そして「アルマ・マーテル」は、自然の豊穣を象徴している。これらの広く大きな壁面を飾る3点の周りには、8点のサイズの小さな作品が並べられている。これらの少作品の役割をムンク自身は次のように説明している「三つの大作は広間の花束のように重々しく堂々とした効果を持つのに対して、他の8点は軽やかに明るく広間の全体的スタイルへ移行する淡い間、あるいは花束を囲む枠のような効果を持つことになる」。

さらに「生命のフリーズは個人の悲しみと喜びとを近くから見つめたものであり、大学壁画は雄大な永遠の力を描いたものである。そして、どちらも"森の中の男女"を通して結びついている」と語っている。 「メタボリズム」と「歴史」「アルマ・マーテル」のどちらにも、樹木の下にいる人の姿が描かれている。生命の神秘も永遠性も、つねに象徴的な樹木の下に表現されているのである。

「太陽(習作)」1912 油彩 カンヴァス  「人間の山」1909 油彩 カンヴァス
当初ムンクは、「人間の山」で講堂の正面を飾るという計画を練っていたが、講堂装飾のためにオスロ大学に設置された審査委員会によって却下されてしまい、代わりに「太陽」が正面に置かれることとなった。 自然の力と生命の源である太陽を求める人々の姿は、「人間の山」が断念されても、形を変えて現れている。それは、最終的に正面に飾られた「太陽」の両隣の狭い壁面に描かれた小作品に、光を求める男女の姿として表されているのである。太陽を求める人間こそ、この講堂壁面の主要なテーマとして、ムンクが一貫して考えていたことを示していると言えるだろう。

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Dsc009251921年、ムンクはオスロ郊外にあるフレイア社のチョコレート工場の社員食堂のために壁画を制作するよう依頼された。またまた少なからず問題が生じていたようだが、契約が締結される直前に、ムンクはクレヨンで描いたすべての壁画のスケッチをフレア社に送っており、それが最終的な合意をもたらしたと考えられる。今回出品されているのは、このときの下絵素描である。
フレイア社の当時の社員食堂は、男性社員用と女性社員用に分かれていた。社屋の最上階の3階が当てられており、ムンクの壁画が飾られた中央の一番大きな部屋は女性用だった。
ムンクの壁画は、現在もチョコレート工場の社員食堂を飾っているが、もともとの場所からは移動され、新たに作られた食堂の壁に掛けられている。12枚の装飾パネルは、すべて樹木の並ぶ海辺を背景として、さまざまな船が浮かぶ海と幾人かの人物ふぁ配置された構成となっており、それによって全体に統一性が与えられている。

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現在のフレイア・チョコレート工場の社員食堂の内部。周りの壁に<フレア・フリーズ>の諸作品が掛けられている。1934年の移設の際に、ムンク自身が新たな設置場所を決め、各装飾パネルの配列の順序に変更を加えているとのこと。

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Dsc00927Dsc009281929年、ムンクは「今や労働者の時代だ。芸術は再び万人の所有財産となり、公的な建物の大きな壁画のために制作されるだろう」と述べたが、これは<労働者フリーズ>の構想を念頭に置いて発言されたものであることは明らかだろう。しかし、実のところ、オスロ市庁舎を装飾する公式の依頼をムンクが受けたことを示す資料はなく、おそらく正式な注文を受けないままに、非公式に様々な話し合いが行われたのだろうと推測できるだけである。したがって、ムンクの壁画が市庁舎のどの部屋に飾られる予定だったのかも不明である。 しかし、彼は装飾プランを発展させ続け、展覧会にも習作を発表していく。
1931年、新市庁舎の礎石が置かれ、建設にようやく手が付けられた。しかし、本格的な工事が始まったのは、さらに2年後1933年であった。この年ムンクはすでに70歳を越え、右眼を患い視力を失いかけていた。「今になって彼らはやって来た。装飾をやってくれと言うのだ。年老いて病んでいるときに。私にはできない。私に能力があったときには、彼らは私を必要としなかったのだ」。このとき、正式な依頼があったとは思われないが、いずれにせよ、この時点では、ムンクが市庁舎の装飾を手掛けるにはもはや遅すぎた。

「雪の中の労働者たち」、「疾駆する馬」、「雪かきをする男たち」などの油彩画が何枚も展示されていた。このプロジェクトが実現せず残念だと思った。
この頃のムンクは、自分のアトリエで<生命のフリース>を並べ替えて眺めていたのだろう...などと想像する。

今回の展覧会で、これまで知らなかったムンクのことがいろいろ分かり、興味深く楽しめた。
テーマを絞った展示は、分かりやすく大変勉強になった。

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エドヴァルド・ムンク(1863-1944)は、19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家、国民的な画家である。現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれている。生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。また、数多くの浮名を流したことでも知られ、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。

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